2021年3月11日木曜日

あれから10年

東日本大震災から10年経ちました.当時は東京本社勤務時で,別のブログにてその日の様子を綴りましたが,その原稿が残っていますので,5年前本ブログで綴ったのと同様,そのまま再掲します.

多くの御霊に合掌. 

***

「地震×津波」2011.3.12

2011年3月11日14:46激しい地震の揺れに見舞われました.

いつになく大きな揺れにただ事ではないと感じましたが,次第に本格的な揺れとなり,急いでヘルメットをかぶり仕事場の3階フロアから非常階段をつたって降り,表通りに出ました.幸いビルからのガラス落下は無いようでした.数分後,大揺れが落ち着いたようなので再びフロアに戻り,TVニュースで状況確認をしたところ,宮城震度7,東京でも震度5強等驚くべき画面にうろたえるばかりでした.私のフロアは管理部署なので全国の支店の被災状況,社員や家族の安否確認に追われました.

都内の公私交通機関はすべてストップしましたので徒歩で帰宅できる社員は早々に帰るよう指示が出ました.私は会社のある日本橋から自宅の新宿区の西端まで約12km徒歩で帰ることにしました.会社の安全部会で習ったこともあり,一度は徒歩帰宅をしてみる必要があるかなと思っていたのですが,現実に実行せざるを得ない状況となりました.徒歩での帰宅が不可能な社員は会社に留まることにしたようです.結局自宅まで3時間かかりました.普段の運動不足がたたって家に着いたときは足が棒のようになってしまいました.途中家の近くのコンビニで食糧を買いましたがパン類は売り切れでした.

家の中は棚や家具の上の置物等が落下しており,ガス栓が自動遮断されていましたが思っていたほどの被害はありませんでした.家族とは地震発生後直ちに携帯で連絡を取ったのですがまったくだめでした.当時家内はたまたま用事で浅草に出向いており,帰宅手段が無いため近くのホテルを確保しました.娘は仕事現場だった品川からタクシーで丸ノ内の会社までたどり着き,会社泊となりました.家族とメール連絡がついたのは徒歩帰宅途中の19:00頃だったと思います.災害時における家族内リスクマネジメントの見直しを迫られた思いです.

TVに映る津波の画像はあたかも映画でのCGの世界のようで,これが現実に起きている事象とはにわかに信じられませんでした.福島県は13年前から6年余赴任した思い出深いところであり,画面で被災状況が映されるたびに心が痛みます.県東部の海岸地域は「浜通り」と呼ばれ,東北にしては冬でも暖かく,新鮮な魚やウニなどが舌を楽しませてくれました.これらなじみの街並みが津波に呑まれていく様子は見るに耐えられません.一刻も早い人命救助と復旧をただただ祈るばかりです.

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿